芳次郎の信用力を背景にした幅広い人脈

ULVAC人物交差点 石川芳次郎 Vol.2

井街は1940年11月に石川芳次郎の長女・八千代と結婚していますから、井街にとって芳次郎は岳父という間柄でもあったのです。1952年5月上旬に芳次郎は京都の自宅から上京します。その機を逃すまいと浩三はじめ井街、川本は芳次郎に直接会いに行って、3人の構想を披露します。慎重居士の芳次郎は、3日目にようやく開口一番、「面白そうだからやってみようじゃないか」と約束します。芳次郎は経営者でもあり、元来が電気出身の技術者です。3人が熱望する真空事業に大いなる可能性、重要性を感じたのでしょう。それからの芳次郎の会社設立に向けての行動は尋常ではありませんでした。

石川芳次郎の幅広い人脈により、松下電器社長の松下幸之助(パナソニック創業者)、日本生命社長の弘世現(日本生命社長)、大沢商会会長の大沢善夫(大沢商会2代目)、日本商工会議所会頭の藤山愛一郎(大日本製糖社長、のちに衆議院議員・外務大臣)、朝日麦酒社長の山本為三郎(創業者)に声をかけ、賛同を得ることとなります。この6人それぞれがポケットマネー100万円の出資と発起人として、また会社設立にあたっては非常勤役員として参画することとなりました。

ちなみに松下幸之助は「芳次郎さんからの頼みごとはお断りできません。信頼していますし、面白そうな仕事ですから頑張って欲しい」と井街を励ましたということです。さらに石川芳次郎本人は、70歳を超える年齢でありながら初代社長として、経営が安定するまでの間、井街ら若者たちの真空事業を支援する立場を取ります。また一方、井街は大学研究室の研究者にも声をかけ、技術陣の体制づくりをします。こうして会社設立に向けて動き出し、アルバック(設立当初は日本真空技術株式会社という社名でした)が誕生します。その詳しい模様は別途機会を設けて、このコーナーでご紹介していく予定です。

石川浩三は実父芳次郎を会社設立に賛同してもらうための内輪話を次のように語っています。(『石川芳次郎の生涯』(石川事務所発行)より)

「オヤジさえ承知してくれたら、いわばオヤジの人徳と信用とで、出資者を得ることは大丈夫と思い、3日がかりで説得に努めました。オヤジは慎重居士の名の通り、石橋をたたいて渡らぬとまで評する人もあったくらいで、はじめはなかなか慎重でした。真空技術の将来性、というよりも日本の技術を発展させ、世界に遅れをとらぬために、この好機を逃すべきでない。もし万々一失敗したところで、日本の真空技術に先鞭をつけた人として石川芳次郎の名前が残れば、それで本望ではないか」

と熱意を込めて浩三は説得したということです。また “名前だけでも後世に残れば”の一言が、芳次郎の技術者魂に火をつける形になって、とうとう立ち上がってくれたと述べています。親子同士ならではのざっくばらんな秘話を披露してくれています。

石川芳次郎の生涯とは?

芳次郎はじめ、こうして集まった財界支援者6人は、ベンチャー企業を金銭面で支援する今で言う“エンジェル”でした。まさにこれ以上のバックアップ体制はないといっても過言ではありません。しかも芳次郎は、アルバックが会社としてほぼ一本立ちができようになった11年後に、井街仁に社長の座を渡し、終身会長として身をひいています。これも芳次郎の深い思いやりの一つなのでしょう。

しかし、なぜ芳次郎の一言でこれだけの人物が集まったのでしょう。何の抵抗もなく100万円という出資金が得られたのでしょう。さらに発起人としてだけでなく、非常勤役員にまで名を連ねてくれています。よほどの厚い信頼関係があったからなのでしょう。芳次郎は生涯にわたって、実に多くの団体・企業の非常勤役員を引き受けていますが、特に60歳を超えてから“終身”役員というかたちで推薦を受けたものが50件ほどあります。また、1969年に死去した際、京都市は芳次郎を市民葬として死を悼むと同時に生前の京都市への業績を讃えています。これら石川芳次郎に対する高い評価を知るには、“芳次郎の人生そのものを知らずして語るべからず”なのかも知れません。

前文が長くなりました。では次回から波乱に富んだ石川芳次郎の人生を詳しく紹介していくことにしましょう。

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