石川芳次郎とアルバック

ULVAC人物交差点 石川芳次郎 Vol.1

【はじめに】

株式会社アルバックの設立に至る経緯は、奇跡の物語といっていいでしょう。「真空技術」というキーワードで繰り広げられる人と人とが織りなす人物の交差点。絶妙な巡り合わせがあったのです。この交差点に集まった人物の一人でも欠けたらアルバックの“今”はなかったのかも知れません。

今回は第1回ということで、そんな重要人物の一人、アルバック初代社長の石川芳次郎を取り上げてみます。事実、石川芳次郎がいなかったらアルバックは設立できたとしても、その後、存続できたかどうか……。というぐらい、まだ一人歩きもしていない真空技術を温かい目でバックアップしてくれた大切な人物です。

【アルバック設立と石川芳次郎】

アルバック設立の発端は1952年4月、井街仁という東京芝浦電気(現・東芝)マツダ研究所に籍を置く研究員の一言から始まります。「アメリカで真空事業の草分け的企業のNRCという会社の社長が、日本で真空事業を興したいのであれば協力するという手紙を送ったそうだ。真空技術はこれから日本の産業に絶対必要なものだ。だから戦後日本の産業復興のためにもこの事業を是非ともやろうと思うが……」ということを井街は、義弟の石川浩三とその友人の川本俊二に相談します。

相談を受けた二人は真空技術そのものを知らないため、その理解からはじめます。井街は、戦前から真空に関する知識を持っており、研究者ということもあって、真空関係の研究会にも足繁く通っており、その重要性については知り尽くしていました。3日3晩、新橋のおでん屋で井街のレクチャーを受けた二人は、真空技術が先端のある未来技術であること、これからの日本の産業にとって重要な技術になることを素人ながら理解できるようになりました。当時、井街は40歳、石川と川本は30歳、いずれも会社を経営する経験はまったくありません。

石川浩三は皆にこう切り出します。「会社を興すとなるとうちのオヤジに相談することにしよう。近いうちに上京する予定だから、そのときに相談にのってもらおう」ということになりました。その“オヤジ”というのが石川芳次郎のことです。石川芳次郎は当時71歳、戦前の1942年までは京都電灯(現・関西電力の前身会社)の副社長を務めており、1943年からは京福電鉄の社長という経歴の持ち主で、驚くことに、その他じつに多くの団体・有名企業の非常勤役員も兼務するなど、経済界をはじめ各方面で清廉潔白な人物として高い信頼を得ている人物です。ちなみに、1950年には経済団体連合会(経団連)の終身理事にも推薦されています。

 

次回は【芳次郎の信用力を背景にした幅広い人脈】についてです

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